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街道を行く10 羽州街道・佐渡のみち「街道を行く」を読み始めてから?年。ようやく10冊目。

街道を行く10は、羽州街道・佐渡のみちです。週刊朝日1976年10月22日号~1977年1月1日号掲載。

 羽州街道は、山形県の真ん中を南北に通っている道で、天童、山形、米沢があります。

 米沢は、関ヶ原以後、120万石から30万石に減らされた上杉家の領地でした。同じ境遇の毛利長州藩が、幕府への怒りをずっと受け継ぎながら、地道に産業振興に成功し、明治維新の立役者になったのと比べると、米沢藩は、江戸時代を通じて貧しい藩だった。

 その名残が、米沢の屋敷囲いや着物などに残っていたらしい。大河ドラマの主人公にもなった直江兼続は、一代で絶家したが、上杉家は幕府の意向を恐れ、江戸時代を通じて墓石もなかったらしい。直江の家来の与板衆といわれる人たちが密かに供養してきて、明治時代になってようやく墓石ができたという話。

 割と話題に乏しい?羽州街道に比して、金山を擁した佐渡は話題が豊富。
 まずは小比叡騒動。慶安5年・1652年の辻籐左右衛門の反乱事件。幕府直轄の佐渡は悪代官や役人が当たり前。その下に、下々のことをかんがえてくれるやさしい侍がいた。これが辻籐左右衛門。

 この評判が同僚の妬みを買い、干されてしまった。江戸に訴えようとしたがかなわず、切腹を命ぜられ、ついには、一族郎党ほか60人が寺にこもり反乱を起こし、最後は皆自決または刑死したということです。
 まるで「水戸黄門」に出てくる話ですが、現実には「黄門様」はいなかったようです。

 ほかには、佐渡金山を充実させた幕府官僚の大久保長安。彼の死後、大量の金を隠し持っていたことがばれ、遺子7人は断罪、お家断絶。
 江戸最後期の佐渡奉行、川路聖謨(としあきら)。幕府の名官僚であり、赴任各地から母親宛に日記形式で手紙を送っていた文章家。明治維新の江戸開城に際し、「幕府に殉じ」ピストル自殺を遂げた。
 佐渡金山で働かされた無宿人たち、などなど。

 佐渡はいったことがありますが、「お役人」視察だったので、記憶はあまりありません。せめてこの本を読んで勉強していれば、印象は変わっていたでしょう。

韃靼疾風録

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韃靼疾風録


司馬遼太郎 韃靼疾風録

 平戸松浦藩の桂庄助と女真族の娘アビアが明という国から清に移り変わる時期の中国を駆け抜ける物語。

 主人公は創作だが、中国東北地方(満州)に住んでいた女真族のヌルハチ、ホンタイジ、ドルゴンなどの王族とその生き方を描き、1911年(明治44年)まで続いた清帝国がどのようにして成立したのか興味深く描いている。

 創作部分と、清成立の歴史的事実の解説的描写がうまく組み合わされ、大変おもしろく一気に読みました。

 ちなみに、題名の韃靼は、本来のタタール人=モンゴル民族一般を差す使い方とはちょっと違っていて、少し違和感がありますがやはり小説の題名としては、この題名の方が売れるのではないでしょうか。

街道をゆく9


 街道をゆく9は、潟のみち(新潟)、播州揖保川・室津みち、高野山みち、信州佐久平みちを旅している。週刊朝日1976年1月~10月連載

 潟のみち。今の新潟市の海岸沿いは、いわゆる潟だった。人々は、潟の中に稲を植え、わずかに盛り上がった土地に家をたてた。
 昭和30年代まで、潟の中の水田地帯が残っていて、「肩」まで水につかるような農作業があったらしい。

 そのように苦労して作り上げた水田だが、明治の地租改正による現金払いの税金を払えないことから、土地を大地主に安く譲って小作になった。生活はどんどん苦しくなった。ついに大正年間に大規模な小作争議が起こったそうだ。

 播州揖保川・室津みち。兵庫県の西、揖保川沿いを一宮から龍野市、室津の港まで旅している。
 龍野市は三木露風の生地で童謡「赤とんぼ」の舞台だった。室津は、遣唐使の時代から江戸期の参勤交代のまで、瀬戸内海のなかでの賑わった港だったらしい。何となく懐かしさが漂う旅である。

 高野山みちは、真田幸村が一時住んでいた九度山から高野山へ。諸国を回り空海信仰を広めて歩いた高野聖について詳しく解説し、高野山の発展に寄与したとしている。
 私もグーグルストリートビューで高野山まで旅してみた。人の寄りつかない山奥だとばかり思っていたら、「高野山」自体は、観光地でたいそうな町だったのでびっくり。

 信州佐久平みちでは、千曲川沿いを旅し、周辺に起こった諸豪族のルーツ、木曾義仲、真田家、一遍上人、平安時代の馬牧場(御牧)について考える。松本までは行ったことありますが、このルート沿いは一度ゆっくり旅してみたい。

街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みちほか
街道をゆく8は、熊野・古座街道、豊後・日田街道、大和丹生川(西吉野)街道、種子島みちを旅している。週刊朝日1975年6月~1976年1月連載

 熊野・古座街道では、和歌山半島の紀伊半島南部山岳地帯を旅しながら、日本古来の習俗としての「若衆組」に興味をもちいろいろ考えている。
 若衆組は、数え15で加入し、妻帯とともに退会する。主な目的は共同体の祭礼や、若者の婚姻誘導(いわゆる「よばい」のしくみ)。若衆組に入ると、両親から離れ、組の中で生活する。「若衆宿」という独立の建物があったり、相当の公的な宿で生活したらしい。

 司馬遼太郎は、西南戦争まで続いた鹿児島の「郷中」もその一種と考えている。若衆組といい郷中といい、ある面では大人たちが押さえきれない面があったようで、西南戦争から太平洋戦争までの、日本の軍拡の流れにも影響を及ぼしたと考えている。

 熊野・古座街道を旅しながら、この若衆組に関する証言などを得たかったようだが、この当時すでに実際に若衆組を体験した年齢層の方はいなくなっていたようだ。これは、大和丹生川街道もほぼ同じような旅。

 豊後・日田街道は、大分空港のある国東半島から由布院、日田の旅。
 別府湾の付け根部分にある日出(ひじ)という城下町は、木下姓の城主がいた。徳川家康が北の政所(ねね)を味方にして関ヶ原で勝ったことから、ねねの兄である杉原家定(木下を名乗っていた)を大分の日出(ひじ)2万5千石に配したらしい。明治維新までつづいたようだ。ねねのおかげで豊臣は滅ぼされ木下は生き残ったのである。

 由布院は私も2度訪れた。もちろん温泉が目的だが、爽やかな高原地帯の温泉郷で癒やされた。ちなみに、由布というのは、昔の言葉で、木の皮から繊維をとりだした布のことだそうだ。院は、奈良時代の官設倉庫のこと。なるほど・・。初めて知りました。

 九州に院が付く地名が多いのは、太宰府の統括力と強さを表しているのだそうな。

他に、元の来島水軍の久留島氏が山奥の豊後森に移されていたこと。小京都と呼ばれる日田の鵜飼いや、朝鮮から連れてこられた陶工高取八山の窯の話など。

原発の経済学

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原発の経済学
ずっと前に購入してあった本ですが、福島第1原発の状況もあり、ようやく読みました。以前読もうと思ったときは原子力関連のキーワードや科学知識についていけず挫折したのですが、今回は、原発関連情報洪水なので慣れてしまい、読み進むことができてしまいました。

 結論的に、原子力エネルギーは石油代替にはならないから、やめるべきだということを、いろいろな視点から述べています。1993年出版ですがそれ以前からの著作を改訂して文庫化したようで、割と読まれているようです。

 原子力発電は、ウラン燃料生産、発電所開設、発電そのもの、廃棄物処理、安全管理、事故賠償保険など石油にくらべて途方もないコストがかかるし、もちろんいろいろな過程で石油も莫大に消費するので石油代替にもならない。

 加えて、万が一の場合は、日本国を崩壊させる・・、ということです。大震災以前に読んでいたら、単純に知識として吸収して終わりだったはずが、現実になってしまったことの恐ろしさに身震いします。

 原発の恐怖がこれ以上無い形で現実化してしまった今、今まで通り原発に頼る生活には戻れないでしょう。これからは「脱原子力発電」を積極的に推進する政党に1票を入れようと思います。

奇跡の教室

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奇跡の教室
 東大合格者数日本一を誇った灘校。私には全く縁がない世界だったのですが、意外なところでつながりました。

 中勘助「銀の匙」の世界を、中学課程の3年間かけて教えた先生がいたのです。新聞でこの本の紹介を読み、すぐに注文しました。その先生は、橋本武。

 教科書使わない、3年もかけて一冊の本しか勉強しない。いったいどんな授業だのか興味津々でした。「銀の匙」に出てくる当時の生活風俗や、古典文化世界を、常に脱線しながら、実際に味わってみたり、遊んでみたり、研究してみたりという授業だったようです。

 「銀の匙」は、確かに脚注がすごく、一語一語脚注で確認しながら読み進む感じでした。この本の著者、伊藤氏貴が書いていた思いますが、大学時代の原書講読の雰囲気のおもしろバージョンですか。

 おそらく灘の生徒だからできることとは思いますが、それにしても毎回脱線用の?いろんなプリントを用意したはずなので、大変なことだったろうと思います。

 そのような教師の熱意と日本一頭のよい子供たちが結びついて、このような授業ができたのでしょう。私自身の中学時代には全く考えられない内容です。

 私は何十年もかけて、ようやくこの教室の初期段階にたどり着いたと思いますが、それも奇跡かも・・。こんな授業があったということで、ちょっとうれしく感じました。

街道をゆく7
 街道ゆく第7巻は、甲賀と伊賀の道、大和・壺坂みち、明石海峡と淡路みち、砂鉄のみち。週刊朝日1973年5月から7月、1974年12月から5月連載されたものです。

 まず、印象に残ったのは、「大和・壺坂みち」で取り上げられている高取城とその城主であった植村家のこと。

 徳川幕府のなかでも古参の家柄だった植村家だが、2万5千石の小大名にしかならなかった経緯がおもしろい。
 家康が天下を取る以前の徳川家で、主君や関係者に凶事があった際、植村家の当主が偶然その場に居合わせることが多かったらしい。

 その植村家の居城である高取城は、標高583mの山城で、現在は石垣しか残っていないのだが、2万5千石には分不相応に壮大な規模だったようだ。
 石垣はかなり残っているようで、Web検索すると相当の記事や写真が見つかる。なかでもおもしろかったのは、CGで再現された高取城だ。奈良県の山の中に、こんなすごい城があったのは見物だったろう。

 「砂鉄のみち」は、この巻の白眉といえる。出雲や美作という中国山地の中で、砂鉄から鉄を精錬する製鉄業が古代から盛んだった。
 その跡をたずね、朝鮮半島から渡ってきた人たちがどのような形で日本に製鉄技術を
もたらし、盛んになっていったか、に思いをはせる。

 「山林一町歩で、鉄が10トン」つまり、鉄を作るには膨大な森林資源が必要な古代の製鉄。中国山地のほとんどの山を所有していた?という、明治期まで製鉄業をしていた田部氏の話。

 製鉄に必要な山林が豊富でなおかつ復元しやすい日本では、鉄生産が増え、一般農民まで鉄製農具が普及し、山林が復元しにくい中国や朝鮮半島にくらべると、生産力が上がり、必然的に商品経済が旺盛な社会になった。

 明治期以後の日本の発展と、他のアジア地域の停滞を考えるときに、この鉄の生産による社会状況の違いが、どのような役割を果たしたかについて、司馬遼太郎は非常に興味を持っていたようだ。

 なお、この巻からPDF化したものを読んでいます。これからの読書はほとんどPDF化したものを読んでいくことになるでしょう。

街道をゆく6 沖縄・先島の道
 街道をゆく第6巻 「沖縄・先島への道」。週刊朝日1974年6月から11月にかけて連載。

 街道をゆくシリーズのうち、唯一我が沖縄県を旅したものですが、他の地域に比べると、退屈な内容だったというか、異質でした。

 このシリーズは、司馬遼太郎の豊富な歴史知識から出てくる話題が楽しいのですが、明治以前の日本史に登場することがほとんどなかった沖縄には、いかに司馬遼太郎といえどもそのようなネタがないのです。

 ということで今回登場するのは、漁師やお店の人、運転手など途中で出会った人々に関する話題がほとんど。

 唯一の歴史話題は、先島地域に残されている倭寇の遺跡と、倭寇が先島地域に及ぼした影響について。これは参考になりました。

 最近ほとんど考えることのなかった沖縄の歴史を思い起こすきっかけになったことは収穫。

街道をゆく5 モンゴル紀行
 街道をゆく第5巻は、週刊朝日1973年11月から1974年6月まで連載分、モンゴルの旅である。
 司馬遼太郎は、大阪外国語学校蒙古語部卒業なのでモンゴルにはひときわ愛着があったが、この旅がはじめての旅だったようだ。

 彼が訪れた時期は、モンゴルとの正式な国交がようやく始まったばかり。当時のモンゴルはソ連に次ぐ世界2番目に成立した社会主義国として存在しており、ソ連のハバロフスク、イルクーツクを経由してしかいけない遠い国だった。

 前半は、経由地のハバロフスクやイルクーツクの状況、旧ソ連の旅行関連サービスの悪さなど、スリルに富んだ状況描写と、遭遇した人々とのやりとりを歴史視点もからめて描写。

 一番面白かったのは、ゴビ砂漠の項。ウランバートルから飛んで、降り立った飛行場は草原のまっただ中。果てしなく続く草原やゴビ、パオ、ラクダや馬の放牧、満天の星空。一度見た人の顔は忘れないというモンゴル人の特徴をはじめ、案内をしたツェベックマさんという女性との文化の違いを感じさせる会話。
 このあたりを読んでモンゴル旅行がしたくなった人は多いだろう。

 現代の文明装置グーグルマップでモンゴルの航空写真を見ると、首都ウランバートルは近代都市だが、郊外部を拡大して見ると、塀で囲まれた中にモンゴル伝統のパオと思われる形が見える。

街道をゆく4
 第4巻は、週刊朝日1972年10月~1973年5月まで連載。洛北諸道、郡上・白川街道と越中諸道、丹波篠山街道、堺・紀州街道、北国街道とその脇諸道と、近畿・北陸のみちです。

「洛北諸道」では、江戸中期に現れたスタスタ坊主(願人坊主)、鞍馬寺と関係があったらしい。また山伏の行う呪術(法)で火の玉が浮かび上がったのを見たことがあるなど。
 大悲山峰定寺(ぶじょうじ)という寺をたてた鳥羽天皇(上皇)が歴代天皇中、一番自分勝手なことをしたらしく「悪王」であるが、中国や西洋の王様から比べると可愛いものだとしている。
 幕末に山国郷に隠れ地下工作を行っていたらしい長州人「河内山半吾」のこと。その山国郷にある北朝の光厳天皇など3代の御陵のこと。とくに後土御門天皇という人は、応仁・文明の乱により、悲惨な宮廷生活だったらしい。
 しかし、室町末期におけるなし崩しの中世的諸体系の大崩壊こそ(フランス革命に相当する)社会革命に相当するものだったかしれない、としている。

「郡上・白川街道と越中諸道」では、郡上八幡の領主だった歌人東常縁(とうのつねより)が、歌を贈ることによって、奪われた領地を取り戻せたという逸話が印象的。
 白川谷では、今昔物語に出てくる、猿の生け贄にされそうになった僧の話。富山県側の五箇山地区の村上家が天正6年(1578年)建造ということで、「この民家をつくった大工たちは、織田信長と同じ時代の空気をともに吸っていたということになる」という感想が印象に残りました。


「丹波篠山街道」では、明智光秀の居城亀山に本部をおいた「大本教」の弾圧。弾圧を指示した検事総長の平沼騏一郎は、官吏でありながら、右翼団体「国本社」の総帥であったというでたらめさ。昭和10年当時はそれが許される時代だった。
 京都の近くであったことから江戸時代戦略的にこの地域には、2,3万石の小大名がおかれていたこと。篠山城主の青山家が、藩邸がおかれていた東京の青山の地名に残ったのみ。
 立杭(たちくい)という焼き物の里。

「堺・紀州街道」では、大阪夏の陣(1615年)で焼き払われた堺の当時に思いをはせる。中世末期に自由都市として栄え、中国、東南アジアに光芒を放っていた当時をしのばせる姿はのこっていない。

「北国街道とその脇海道」では、琵琶湖の西岸の海津から敦賀までを最初にたどる。渤海国との朝貢貿易や、幕末の水戸天狗党の最後の様子など。
 木ノ芽峠という難所にかけて、越の国(北陸3県)出身の継体天皇や、柴田勝家と秀吉の争いなどが紹介されています。

P.S.
 敦賀市のホームページを見ると、今は松本零士のアニメキャラクターが通りを飾っているらしい。

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